アンケート & プレゼント

全葬連葬儀事前相談員

お葬式のことは全葬連葬儀事前相談員がご相談に乗ります

お葬式のことがよくわからない、どんな準備をすればいいのか費用はいくらくらいなのか・・・・・
お客様からのお葬式に対する様々な疑問に、葬祭サービス事業者として真摯な姿勢で誠実にお答えするために「全葬連葬儀事前相談員資格制度」は生まれました。



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葬祭コーディネーターコンテスト

全葬連では、葬儀業者の社員の自己の知識、実演の技術内容・水準だけでなく、消費者・生活者の立場を尊重・理解すること、お客様にどのような印象を与えているかなどの確認を行うことを目的として、毎年組合員を募り開催しております。
平成26年度で10回目を数えます。

葬祭コラム

第40回

「農」のゆくえ

 五月二十二日、政府の規制改革会議が農業改革に関する提言を取りまとめて公表しました。地域ごとの農協を統括している全国農業協同組合中央会(JA全中)の廃止など、その内容は「農業」改革というよりも、むしろ「農協」改革といったほうが的確かもしれません。いずれにしても農協の葬祭事業という問題を考えれば、当然ながら私たちにとっても他人事ではないと言えるでしょう。
 この提言に先立って安倍首相が「(農協の組織制度に関する)改革をセットとして断行していく」と明言したこともあり、農協側には自らの解体につながるのではないかという危機感がひろがっています。JA全中から末端の農協にいたるトップダウンの制度にメスを入れるだけでなく、農産品の販売などを手がけるJA全農(全国農業協同組合連合会)を株式会社化するという大胆な内容も盛り込まれていますから、農協関係者がその大きな変化を警戒するのも無理からぬことです。
 その一方で、私たちにとっても今回の政府提言は単に「農協の葬祭事業」だけでなく、「農」そのものに対する立場を省みる機会となるはず。国家の土台である農業が廃れ、豊かで彩りのある食生活を担う人びとが急激に減っていくという事実は、もちろん歓迎すべきものではありません。
 とくに福島第一原発事故のあと、「農」の問題はさらに切実さを増してきました。競争原理だけで全てが覆われてよいのだろうか。豊かで安全な生活の礎となってきた地域社会のつながりは、今後どのように保たれていくべきなのか。今回の提言の背後に透けて見える問題は、実は私たちが置かれている難しい状況の構図とも地続きになっています。そしてわが国の葬儀文化が、農業のいとなみと切り離せない歴史のなかで培われてきたことも事実。これを機に、「農」のゆくえと重ね合わせながら、「葬儀」のゆくえをじっくりと考えてみてはいかがでしょうか。

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第39回

セルフィー雑感

 セルフィーと聞いて「ああ、私もよくやりますよ」と心のなかで思った読者は、おそらくスマートフォンを相当使いこなしている方か、あるいはIT(情報技術)の情勢にくわしい方かもしれません。セルフィーというのは自分で自分を撮ったセルフ写真、つまりは「自分撮り」を指す言葉。むかしと違ってスマートフォンで高画質の写真が時と場所を選ばず手軽に撮れるようになった今、有名店で美味しい食事をすれば暖簾を背後にパチリ、ふと出会った友人と意気投合すれば肩を抱き合ってパチリというように、いつでもどこでも自分の姿を記念撮影という光景は特に珍しいものではなくなりました。
 さて、そのセルフィーをめぐって昨年から米国を中心に興味深い現象が起きています。一〇代から二〇代の若者を中心に、葬儀の場でセルフィーを撮って、それをブログやフェイスブックなどに載せるということが流行しているのです(フューネラル・セルフィーと呼ばれているのだとか)。もちろん、その振る舞いに眉をひそめる方々も多いでしょう。しかし、その行為が正しいかどうかを見きわめる前に、生まれた時からすでにパソコンとインターネットが普通に存在していた若者達にとっては、このセルフィーもまた「ネットを通じて誰かとつながる」手段のひとつであることを認識する必要があります。
 そう考えると葬儀の場でセルフィーを撮り、インターネットを通じて不特定多数の人間に見せるという行為は、もしかすると若者なりの「亡き人とのつながりを再確認する行為」なのかもしれません。とは言え、なかには棺の前でふざけながら撮影するような死者を冒瀆する類のセルフィーもあるようですから、一概に「構わないじゃないか」とは言えないのも難しいところですが、いずれにしてもインターネットの浸透や新しい情報技術の出現が死のありかたにまで影響を及ぼしているのは、否定し難い事実なのではないでしょうか。

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第38回

直葬とドライブスルー葬

 少し前のことですが、米国ロサンゼルスにある葬儀社の「ドライブスルー葬」というサービスが、ちょっとした話題を呼びました。
 米国の葬儀ではビューイング、つまり遺体とのお別れに大きな比重が割かれます。また多くの場合、エンバーミング後の遺体を葬儀社の用意した式場などに安置して、そこに近親者や友人などが次々にやってくるという形式をとります。ではドライブスルー葬とは?
 それは、葬儀会館に車でやってきた弔問客がそのまま車から降りることなく、遺体とお別れできるというものです。たしかにファストフード店でもよく見かける、あのドライブスルーと外見上ではさほどの違いはありません。ハンバーガーを受け取る窓口の代わりに、故人の遺体を安置したガラス張りの部屋がある、といったところでしょうか。
 とは言え私の記憶が正しければ、このドライブスルー葬は米国が自動車社会に突入して黄金期を築きあげた一九六〇年代頃には、すでに存在していたはずです。しかしあくまでも「まれに見かける」程度で、だからこそ未だにどこかで行われていると、もの珍しさからニュースとして報じられるのでしょう。
 さて視線をわが国に戻すと、相変わらず直葬という言葉が世間をにぎわしています。自らの希望で直葬を選んでいるのか、それとも経済的理由で余儀なくされているのかといった事情もさまざまだと思うので、一概に批判することはできません。ただし、やはりその背後には早い・安い・便利というドライブスルーの思想が見え隠れしている感があります。
 そして、その思想が死の出来事にふさわしいのかという疑問もさながら、合理性の追求にかけては日本が及びもつかない米国ですら、ドライブスルー葬は珍奇なものに留まっているのも事実。直葬はたしかに効率的な行為であるのかもしれませんが、それが「普通の葬儀」になって良いのかどうかということは、省みるべき問題なのではないでしょうか。

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第37回

災害とたたかう全葬連

 「地震国日本において、災害対策の上で社会に奉仕・貢献する行為は、吾々業界のもつ使命として当然のことといわねばならない」
 東日本大震災を経験した私たちにとって、身の引き締まる言葉です。さて、それではこの言葉は一体いつごろ、誰が述べたものか、お分かりになるでしょうか。実は今から四半世紀以上も前の、全葬連初代会長をつとめた小林總一郎氏による発言なのです。
 全葬連が生まれたのは一九五六(昭和三十一)年にまで遡りますが、その発足当初から大規模災害への対応は、重要な事業の一環として掲げられていました。当時に死者四千六百余名を数える大災害となった伊勢湾台風が起きたことなども影響していると思われるものの、まさしく先見の明と言ってしかるべきものです。また、一九七七(昭和五十二)年に京都市と結んだのを皮切りに着々と自治体との災害協定締結を進め、一九七八(昭和五十三)年の第二十三回福岡大会では緊急用の木棺備蓄を宣言して翌年度に実行に移すなど、諸分野の業界団体と比較しても全葬連はかなり早い時期から「災害とたたかう」組織であることを打ち出してきたと言えるでしょう。
 一方、私たちが「死者を弔う」というかけがえのない仕事に携わっていることを踏まえれば、これまで築いてきた災害支援の枠組みは、業界団体の一事業というよりも、社会全体の期待にこたえるという「専門家のプライド」のあらわれなのかもしれません。冒頭の小林氏は、かつて関東大震災で遺体が露天に晒され、納棺されることもなく「野焼き」されていた無残な光景を引き合いに出しながら、次のように述べています。「世界の経済大国に成長した今の日本で、仮に過去の例の如き処置がとられたとするならば、誠に恥ずべき行為であり、慰霊を冒瀆するものである」
 東日本大震災から、三年。数多くの先達のプライドを引き継ぐ志だけは、忘れずに心のなかに留めておきたいものです。

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第36回

アベノミクス

 安倍首相が第二次安倍内閣を組閣してから約一年。その国民生活への影響は毀誉褒貶ともにいろいろと議論されてきましたが、なかでもアベノミクスという言葉を聞かない日はないと言ってもいいでしょう。しかし、それではアベノミクスとは具体的にどのような政策なのかと問われれば、(私も似たようなものですが)返答に窮する方も多いのでは。
 「仕組みは何だかわからないが、とりあえず景気を良くしようとする施策」と受けとめられている感すらあるアベノミクスは、安倍首相が三本の矢という言葉を頻繁に用いるように、大まかに言って「大胆な金融政策」・「機動的な財政政策」・「民間投資を喚起する成長戦略」という三つの政策方針のことを指します。それによって家計や経営が上向き始めたという声もあれば、まったく実感が湧かないという声もそれ以上に耳にしますが、さて皆さんはいかがでしょうか。
 ところで、安倍政権やアベノミクスへの賛否はさておき、なぜこのような政策が採られたのかということを少し考えてみると、とりもなおさず「失われた二十年」を取り戻そうという視点が背後に存在することがわかります。そしてバブルの終焉を経て今日に至る約二十年の低成長時代の間、葬祭業の仕事も、葬儀のありかたも、また業界の構図もかなりの変貌を遂げてきました。
 それは逆に、待っていても顧客が来てくれる時代がすでに遠い日の話になってしまったことを示唆していますが、一方で良かれ悪しかれ全てを景気のせいにするのは少し違う気もします。アベノミクスの成否がどちらに分かれようと、あるいは景気の全体的な傾向がどうなろうと、私たちは昔から着実で誠意のこもった無形のサービスを根本としてきたはず。景気の動向でサービスの水準が大きく上下すると考えるのではなく、いつでも変わらない気概と技術で日々の仕事に臨みたいものです。

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第35回

一年の計、十年の計

 この時候になると、「一年の計は元旦にあり」という言葉をよく耳にします。読者諸氏のなかにも「さあ、この一年間に何をしようか」と決意を新たにされている方も多いことでしょう。しかし年に一度しか巡ってこない折角の機会ですから、一年だけと言わず十年の計を案じてみるのも良いかもしれません。
 実は、一年の計だけではなく、十年の計という言葉もたしかに存在します。双方ともに、今から二千年以上も前に編まれた『菅子』という中国の古典に出てくる言葉で、そこには「一年の計は穀を樹うるに如くは莫く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し」という句が載せられているのですが、現代風に言えば「一年の計画は穀物を植えるに及ぶものはなく、十年の計画は木を植えるに及ぶものはなく、そして一生をかけた計画は人を育てるに及ぶものはない」といった内容になるでしょうか。
 なるほど、言い得て妙という感があります。一年の計というと、どうしても「今年は何が収穫できるだろうか」という短期的な利益に思いが向きがちなもの。一方、十年の計ともなれば「この木を植えたら、ゆくゆくは何が実るだろうか」という大局的な観点が自然と求められます。そして、うつりかわりの早い今日の葬儀の風潮を前にして私たちに求められているものもまた、どちらかと言えばこの十年の計や、もしくは「どのような人間を育てていくか」という一生の計であるような気もするのです。短期的な計画も大事ですが、次の十年にどう臨むかという観点を胸に日々の仕事を省みる眼差しは、おそらく現代の葬祭業にとって必要なことと言えるでしょう。
 あらためまして、新年の到来をお慶び申し上げます。二〇一一年から始まったこのコラムも、早いもので皆さまと一緒に三年目の春を迎えることができました。本年だけでなく、これからの十年間が全ての皆さまにとって実りある時間になりますように。

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第34回

葬儀と伝統

 わが国における葬儀の歴史のなかで、後々まで記録されるであろう出来事が先月ありました。今上天皇(つまり現在の天皇)と皇后の葬法を、江戸期から続けられてきた土葬ではなく火葬とすること、そして陵墓の規模を縮小することが正式に発表されたのです。
 天皇という存在については読者の方々もそれぞれの考えをお持ちでしょう。ただ、政治的思想の問題とは別に、ひとりの人間としてそのご意向はできるだけ尊重されるべきであると私自身は考えています。すこし話は脱線しますが、年配の読者諸氏のなかには「銀ブラ事件」の名を記憶している方も多いのでは。今上天皇がまだ高校生の頃、友人達と銀座を散歩し、喫茶店に入っただけで警察官が大挙して動員されてしまう事件になったぐらいですから、その生活の息苦しさは察するに余りあります。
 そのように自由気ままな外出もできず、メディアにはご家族ともども虚実ないまぜに報じられ、それでいて日々休みなく公務を続けながら穏やかな人間性を保つだけでも尊敬に値しますが、報道によれば天皇ご自身は皇后と同じ陵墓に合葬されることを望まれたものの、それは諸事情で見送られたのだとか。おそらくは、そのような決定に至る過程のなかでも悩まれたのではないでしょうか。
 とは言え、今回の件では「簡素化」や「旧習の変革」といった話題ばかりに光が当てられている感がありますが、それだけで語られるのも若干の違和感があります。むしろその逆に、表面的な個人主義に堕することなく、私的な思いと伝統文化との融和を探りながら、葬儀という機会を極めて大事なものとして受けとめられているような気もするのです。それはまた自らの人生を過去の先祖と、そして同時代の人々とのつながりのなかに置くという深い思慮のあらわれでもあり、実はそれこそが古今変わることのない最も大切な「守るべき伝統」なのかもしれません。

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第33回

プライド

 先月の下旬、あるホテルチェーンのレストランで、料理のメニューが実際と異なっていたという不祥事が大きく報じられました。冷凍品なのに「鮮魚」と表示したり、一般的な食材を使いながら産地ブランドの名を冠した品を提供していたりと、いずれにしてもホテル全体の信用と品格を著しく低下させた行為であるのは論を待ちません。その後の報道によると、こうした偽装が現場ではほとんど暗黙の了解となっていたとのことですから、専門家や職人としてのプライドは一体どこにいってしまったのかと嘆きたくなります。
 さて、この事件を聞き及んだ際、私はふと先日の全葬連〈岩手〉大会のことを思い出しました。というのも、「我々のプライドに賭けてもお客さまへの……」、あるいは「全葬連に加盟する者としてプライドを持った行為を……」といったように、分科会などのさまざまな席上でプライドという言葉が引き合いに出されていたからです。うがった見方をすれば、それは危機感のあらわれとも考えられるでしょう。しかし私自身は、このような矜持を持った姿勢は非常に望ましく、また頼もしいことだと考えています。
 柔軟性のない唯我独尊の態度になるのは避けるべきですが、しっかりと自分の仕事にプライドを持つことは、実はサービスを提供する人びと全てにとっての根幹であり、古今東西変わりはありません。顧客の側にしてみても、冒頭に掲げたホテルのように「ばれないと思って適当にやっている」態度が透けてみえる業者と、自らの仕事に信念と誇りを持っていることが伝わる業者とでは、どちらを選ぶかは明白。だからこそ、過去にも増してサービスに込められた精神性が重要となっているこの時代には、専門家としてのプライドを、そして全葬連という信頼ある組織にいることのプライドを、より前面に打ち出しても良いような気がします。何しろ私たちの仕事は一事が万事、信頼で成り立っているのですから。

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第32回

葬儀と音楽

 葬儀で音楽を流すことは、今では特に珍しいものではなくなりました。葬儀専門のCDも市販されているぐらいですし、また音楽葬という形式が出始めてから既にかなりの月日が経っています。それ以前に、キリスト教式の葬儀では賛美歌が必ず歌われるものですし、仏式においても御詠歌は言うに及ばず、各種の読経もその節回しを考えれば広義の音楽と言えなくもないかもしれません。
 このように葬儀と音楽とは、ある意味で非常に密接な関係を持つものの、一方で私はこれまでに「葬儀で変な音楽が流れていたのですが、あれは葬儀社さんのほうでは決まりごとなんですか?」という言葉を会葬者や遺族から投げかけられた経験が少なからずあります。実はかくいう私も弔電奉読や出棺に際して特に気に留めず、そして事前に打ち合わせることなく音楽を(神葬祭で雅楽を用いるといった場合を除き、ほとんどは荘重なクラシックを低音量で)流していたことがありました。私自身はそのことに対してお叱りを受けることはなかったのですが、後から振り返ってみると皆が皆「音楽が好き」というわけでもないでしょうし、またそれぞれに好みもあるでしょうから、単にBGMとして流すのならば静かなほうがよいと思う方も多いことでしょう。
 ただし難しいのは、逆に「なんで音楽を流さないんだ」と考える方もいる、ということ。そう考えると結局は事前に綿密な打ち合わせをしておくのが肝要という決まりきった話にはなってしまうのですが、こういった細かい点ひとつを取ってみても、私たちは自分の気づかないところで故人や遺族の「好み」の次元に立ち入っているのだということを意識する必要があります。毎回の葬儀を流れ作業のように惰性で流すのではなく、常に適切な緊張感を持って「遺族とともに葬儀をつくりあげる」という姿勢で臨むことが、過去にも増して求められているのではないでしょうか。

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第31回

としよりの日

 今月の『葬祭界』の発刊日は九月十五日。そして九月十五日と聞くと、おそらく「敬老の日」を思い出すのではないでしょうか。法律改正によって今では九月の第三月曜日が正式な日付ですが、それでも「九月十五日は敬老の日」という連想が一般的と言えます。
 ところで、この「敬老の日」は、もともと「としよりの日」という名称でした。九月十五日に定められた理由は諸説あるものの、実際には兵庫県のとある村で戦後まもなく制定されたものが、後に全国的な広がりを見せるに至ったのだとか。しかし、「としより、という言いかたはちょっと……」と考える人も多かったのでしょう。六〇年代には「老人の日」に、そしてさらに「敬老の日」に改称されました。「としより」や「老人」に揶揄的な意味合いがあるか否かは議論の分かれるところだと思いますが、いずれにしてもこれらの経緯をしっかりと思いだせる方は、まさしく「敬老」の対象に違いありません。
 とは言いながらも、どの年齢から老人とするかは微妙な問題です。WHO(世界保健機関)、そして日本の社会保険や統計の多くは六十五歳以上を高齢者と一応定めていますが、これらはあくまで制度上の定義に過ぎません。私も以前、ある方に「業界の長老ですね」と語りかけたら「まだ老人じゃないぞ」と叱られたことがありました。
 それはそれで笑い話で済むとして、老いの意識を抱えつつ日々を暮らすということは、やはり切実なもの。しかし、考えてみれば日本ではすでに四人に一人は(制度上の)高齢者なのであり、五十年後には二・五人に一人の割合になると言われています。当然、葬儀で見送られるのも長寿の方ばかりになるでしょうが、それを見送るお手伝いをする私たち葬祭業の人間にも、高齢者ならではの知恵と経験が必要であるはず。というわけで、業界の「おとしより」の方々には、いつまでもご壮健であってほしいと願うばかりです。

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